あるいは、子供番組の歌に仕込まれた17小節の宇宙について
まず、この曲を聴いてほしい。
「でんしゃのなかはおもちゃばこ」。
ひらけ!ポンキッキで歌われていた、子供向けの楽曲である。
歌は、ぶんけかな。
作詞は森由里子。
作曲はFrankie T.。
編曲は西脇辰弥。
タイトルの時点で、もう完全に子供向けである。
でんしゃ。
おもちゃばこ。
いろんな人。
車内の風景。
子供の目線。
いかにもポンキッキらしい。
お茶の間で流れるやつである。
テレビの前で子供が見ているやつである。
親は台所で何かをしていて、画面からふっと音楽が流れてくるやつである。
要するに、日常の中の音楽である。
クラシックの演奏会でもない。
ジャズクラブでもない。
音大の和声課題でもない。
アレンジャーが「俺の技術を見ろ」と叫ぶための場所でもない。
子供番組である。
だから、まず普通に聴くと、普通にいい曲なのだ。
明るい。
かわいい。
メロディが覚えやすい。
歌詞も聞き取りやすい。
電車の中にはいろんな人がいる、という情景もわかりやすい。
そして何より、子供がちゃんと歌える。
ここが大事である。
この曲は、聴いた瞬間に「うわ、難しいことしてるな」とはならない。
むしろ逆である。
「ああ、よくできた子供向けの歌だなあ」
そう思う。
思うのである。
私にとってのポンキッキ音楽
ここで少しだけ、筆者の話をしておきたい。
私は、たぶん幼稚園から小学校に上がる手前くらいの時期に、この「でんしゃのなかはおもちゃばこ」を聴いている。
その時点では、もちろんコード進行など考えていない。
DbM7も知らない。
Ab/Bbも知らない。
「上部構造和音」などという、子供が知っていたら嫌すぎる言葉も知らない。
ただ、曲は残った。
子供向けの歌として。
電車の歌として。
少し不思議で、妙に耳に残る曲として。
そして、私にとってポンキッキは、単に「懐かしい子供番組」だけではなかった。
たぶん小学校低学年の頃だったと思う。
小1から小3くらい。
学校を病欠して、平日の昼間に家でテレビを見ていた時期がある。
その頃の記憶の中に、ポンキッキの音楽パートで、谷啓さんがトロンボーンを吹いていた場面がある。
これについては、今のところ、どの回のどのコーナーだったのか、決定的な記録までは確認できていない。
なので、ここではあくまで「私の記憶では」と書く。
ただ、谷啓さんが「ガチョーンの人」だけではなく、本格的なトロンボーン奏者であり、ジャズマンでもあったことは、後から知った。
フランキー堺とシティ・スリッカーズでトロンボーンを吹いていた人である。
お笑いの一歩奥に、ガチの音楽家の顔がある人である。
子供だった私は、たぶんそこにやられた。
「ガチョーン」の人が、めちゃくちゃ真面目な顔でトロンボーンを吹く。
ふざけているようで、音は本物。
子供番組なのに、急に大人のプロの音がする。
そこから私はトロンボーンにハマった。
十数年、吹奏楽沼に落ちた。
市民楽団にも一時在籍した。
しかも私は絶対音感持ちだった。
なので、たぶん子供の頃から、ポンキッキを完全に無邪気な子供番組としてだけ見ていたわけではない。
もちろん、子供として普通に楽しんではいた。
ガチャピンもムックも見ていた。
普通に笑っていた。
しかしその一方で、どこかでこう思っていた。
「この番組、音楽に妙に本気の大人が混ざってないか?」
子供向けだから薄める。
子供向けだから簡単にする。
子供向けだから雑でいい。
そうではない。
子供向けの顔をして、本気の大人が本気で遊んでいる。
フジテレビの子供向け音楽に、そういうぶっこみがあるのではないか。
そんな疑いを、小学生低学年くらいの時点で、うっすら持ち始めていた。
いや、子供としては普通に見ていた。
ただ、耳だけが勝手に反応していた。
そして大人になった今、私はしがないプログラマーである。
毎日コードを書いたり、よくわからない不具合と戦ったりしている。
しかし、ときどきこうして、子供の頃に聴いたポンキッキの曲を掘り返している。
なぜか。
あの頃感じた、
「これ、子供向けの顔をしているけど、中に本物が入ってないか?」
という感覚が、いまだに気になるからである。
そして今回、「でんしゃのなかはおもちゃばこ」のAメロを耳で追い、コードを書き起こし、構造を解析してみた。
結果。
しかも、思っていたよりずっと危険なものが入っていた。
ところが、である
この曲を何度か聴いていると、妙な瞬間がある。
なんというか。
流れていく和声の中に、ふっと変な光が差す。
いや、変というと語弊がある。
美しい。
とても美しい。
ただ、普通の子供向け楽曲で想定している「明るい」「楽しい」「わかりやすい」だけでは説明しきれない、少しだけ大人びた色がある。
一瞬、車窓の外の景色が変わる。
電車の中の歌なのに、少しだけ夢の中みたいになる。
そして、音楽を多少やっている人間なら、たぶんこうなる。
そういう瞬間がある。
しかも、これが一回ではない。
何度聴いても、同じ場所で引っかかる。
でも、曲としては自然に流れている。
子供の歌としては何も壊れていない。
だから余計に気になる。
何が起きているのか。
公式コードは、ない
ここで重要な話をしておきたい。
この曲のコード進行は、公式には公開されていない。
少なくとも、一般に参照できる形で「これが公式コードです」と提示されているものではない。
つまり、ここから先に出てくるコードは、筆者が耳と譜面と執念で解析したものである。
最初からきれいに見えたわけではない。
むしろ最初は、かなりめちゃくちゃだった。
「これはEb11か?」
「いや、でも上はDbじゃないか?」
「ここはBb9sus4でいいのか?」
「いや、Ab/Bbと見ないと前後がつながらないのでは?」
「4小節目、Eb11(omit5)って書けるけど、それだと何かが死ぬ」
「いや待て、これ、後ろで回収してないか?」
そういうことを、ぐちゃぐちゃやった。
聴いて、書いて、消して、また聴いて、また書いた。
たぶん、音楽関係者がこの曲を何気なく聴いて、
「え、いま何したん?」
となったら、同じことをすると思う。
数時間ヘビロテする。
同じAメロを何度も聴く。
ピアノで押さえる。
コードネームを書き換える。
そして、だんだん顔が変わってくる。
最初は、
「なんか洒落てるな」
だったのが、
「いや、これ……構造あるな」
になり、
最終的に、
になる。
筆者はなった。
まず、普通の子供向け進行ならこうでもいい
この曲が子供番組の歌であることを考えるなら、Aメロはもっと簡単でも成立する。
たとえば、E♭メジャーなら、
Eb | Bb | Eb | Bb Ab | Eb | Bb | Eb
こういう感じでも、子供向けの歌としては普通に成立する。
明るい。
わかりやすい。
歌いやすい。
番組にも合う。
誰も困らない。
あるいは少し洒落ても、
Eb | Bb/D | Cm | Gm Ab | Eb/G | Fm Bb | Eb
くらいなら、まあよくある。
子供向けとして自然。
ポップスとしても自然。
耳にも優しい。
ところが、「でんしゃのなかはおもちゃばこ」は、そういう方向ではなかった。
もっとずっと変なことをしている。
ただし、変なことをしているのに、変に聞こえない。
ここが怖い。
では、Aメロのコードを見てみる
引っ張った。
だいぶ引っ張った。
では、筆者が解析したAメロのコード進行を見てほしい。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9 | Ebadd9
もう一度言う。
これは、ひらけ!ポンキッキで歌われていた、子供向けの電車の歌である。
「でんしゃのなかは おもちゃばこ」という歌である。
なのに3小節目が、
Db/Eb
である。
7小節目が、
DbM7
である。
4小節目が、
AbM7(omit3)/Eb
である。
8小節目が、
Ab/Bb
である。
積み木。
ぬいぐるみ。
ミニカー。
DbM7。
もちろん褒めている。
このAメロは、17小節でE♭メジャー宇宙を一周する
ここで、すぐに各コードの話へ行きたくなる。
DbM7がどうとか。
Ab/Bbがどうとか。
Db/EbをEb11と書かない理由がどうとか。
行きたくなる。
だが、まず全体を見る。
この進行を4行に分ける。
1行目:Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb 2行目:AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb 3行目:Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb 4行目:AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9 | Ebadd9
この構造が、まずおかしい。
1行目から2行目では、E♭メジャーという中心を保ちながら、その外側を見に行く。
D♭。
D♭M7。
A♭の上部構造。
B♭へ向かうsus的な帰還装置。
つまり、E♭メジャーの重力圏にいながら、外宇宙を見ている。
一方で、3行目から4行目では、同じ入口から始まるのに、最後はE♭メジャーの内側を通って帰ってくる。
AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9
これはE♭メジャー内部の、非常に美しい循環である。
つまり、このAメロはこうなっている。
前半:E♭メジャーの外側を見る 後半:E♭メジャーの内側を通る
しかも、それを子供が歌える形でやっている。
ここが本当におかしい。
1行目:E♭の床を固定したまま、外側の影を見せる
まず1行目。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb
ここはベースがずっとE♭である。
床がE♭。
線路がE♭。
車輪のガタンゴトンがE♭。
子供が安心して乗っていられる土台は、一切動かない。
しかし、上に乗るコードだけが変わる。
Eb Bb Db AbM7(omit3)
つまり、足元は同じなのに、窓の外の景色だけが変わっていく。
これが電車の歌として、あまりにもよくできている。
電車は同じレールの上を走っている。
でも車窓の景色は、どんどん変わる。
E♭ペダルはレール。
上部構造は景色。
うますぎる。
そしてここで重要なのは、1行目のコードが単に「変わったコードを並べました」ではないことだ。
この4小節は、すべてE♭を下に置いたまま、上だけを変えている。
つまり、E♭という中心から離れない。
離れないのに、上の景色だけはかなり遠くまで行く。
子供向け楽曲としての安心感は、このE♭ペダルが作っている。
しかし、大人の耳が「ん?」となる色彩は、上部構造が作っている。
下は安心。
上は不穏。
下はレール。
上は車窓。
下は子供向け。
上は音楽関係者向け。
1小節目:Eb
Eb
まずはEb。
E♭メジャーのI。
主和音。
出発点。
駅のホームである。
ここは何もおかしくない。
「でんしゃのなかは」という世界に入るために、まずE♭という床を見せる。
子供にもわかる。
耳にも優しい。
曲の入口として、非常に素直である。
問題は、ここからである。
2小節目:Bb/Eb
Bb/Eb
B♭は、E♭メジャーにおけるVである。
普通ならドミナントである。
しかし、ここではベースがB♭に行かない。
E♭のまま。
B♭の構成音は、
Bb - D - F
そこにE♭が下にある。
Eb - Bb - D - F
E♭から見ると、
1 - 5 - maj7 - 9
のような響きになる。
つまり、これは普通のVではない。
B♭というドミナントの素材を使いながら、機能としては解決を急がない。
E♭ペダル上の、透明な色彩として鳴らしている。
ここがまず粋である。
普通のVなら、B♭が「E♭へ帰りたいです」と主張する。
しかしBb/Ebでは、ベースがすでにE♭にいる。
帰りたいも何も、もう帰っている。
では何が起きるか。
B♭の中にあるDが、E♭に対してmaj7のように響く。
Fが9thのように響く。
B♭は5度として安定する。
つまり、B♭コードを置いているのに、聴こえとしてはE♭の拡張された透明な響きになる。
このDが良い。
E♭に対して半音下ではなく、長7度上のDである。
ほんの少しだけ、地面から浮く。
明るい。
でも、ただの明るさではない。
少しだけガラス越しの明るさになる。
ここでまず一つ、伏線が置かれる。
このB♭系の響きは、後で6小節目の、
Bbsus4/G
として別の形に変わる。
2小節目では色。
6小節目では橋。
この時点では、まだ読者は気づかない。
いや、聴いている人も気づかない。
しかし、置かれている。
3小節目:Db/Eb
Db/Eb
ここでD♭である。
E♭メジャーから見れば、D♭は♭VII。
ダイアトニックの外側である。
普通の子供向け楽曲なら、ここでいきなりD♭が出てくるだけでも、そこそこ事件である。
E♭メジャーの中であれば、Dは普通にいる。
しかしD♭は、半音下がる。
急にミクソリディアン的な、あるいは借用和音的な色が出る。
だが、ここはさらに一段ややこしい。
D♭が出るのに、ベースはE♭のままなのである。
D♭の構成音は、
Db - F - Ab
そこにE♭。
Eb - Db - F - Ab
E♭目線で見れば、
1 - ♭7 - 9 - 11
であり、響きとしてはEb11的にも見える。
見える。
見えるが。
少なくとも、この曲の構造を見たいなら、Eb11では足りない。
なぜか。
Eb11と書くと、これは「E♭の上にテンションが乗ったコード」になってしまう。
もちろん、響きの説明としては近い。
E♭を根音に見れば、D♭は♭7、Fは9、A♭は11である。
理論上、Eb11的だと言いたくなる気持ちはわかる。
筆者も一度はそう思った。
しかし、ここで本当に重要なのは、D♭という別の和音が、E♭ベースの上に乗っていることなのである。
つまり、
Db/Eb
と書くことで、
> いまはE♭の床に乗っているが、上にはD♭の世界がある
ということが見える。
これをEb11と書いた瞬間、D♭の存在がE♭のテンションに吸収されてしまう。
D♭がD♭として立たなくなる。
後で出てくるD♭の意味が弱くなる。
そして、このD♭は後で戻ってくる。
7小節目で、
DbM7
として。
3小節目のDb/Ebは、7小節目DbM7の予告編である。
ここをEb11と書いてしまうと、予告編のタイトルが消える。
音は近い。
でも物語が消える。
だから、ここはDb/Ebでなければならない。
しかもこのDb/Eb、メロディとの関係でもうまい。
E♭の床があるから、子供向けの安定感は失われない。
しかし上にD♭が乗るから、世界がふっと曇る。
暗くなるのではない。
不思議になる。
これが「おもちゃばこ」という言葉に合う。
箱の中に何が入っているかわからない。
楽しい。
でも、少しだけ未知である。
その未知の感触が、このDb/Ebにある。
4小節目:AbM7(omit3)/Eb
AbM7(omit3)/Eb
A♭M7は、E♭メジャーではIVM7である。
本来の構成音は、
Ab - C - Eb - G
ここから3rdのCを抜く。
Ab - Eb - G
そこにE♭ベース。
Eb - Ab - G
E♭から見ると、Gは3rd、A♭は11thである。
だから、音だけを見るなら、
Eb11(omit5)
のようにも書ける。
書ける。
だが。
いや、理論的には書ける。
響きの説明としては間違いではない。
しかし、Eb11(omit5)と書いてしまうと、この小節で起きていることが見えなくなる。
ここで大事なのは、E♭のテンションではない。
E♭の上に、A♭M7の影が落ちていることである。
A♭M7というコードは、本来かなり甘い。
IVM7なので、サブドミナントの広がりがある。
しかもM7のGが入ることで、ただのA♭ではなく、少し大人びた透明感が生まれる。
しかし、ここでは3rdのCを抜いている。
これが非常に重要である。
Cがあると、A♭メジャー感がはっきり出る。
「あ、A♭M7ですね」となる。
A♭側の性格が強くなる。
ところがCを抜くと、A♭M7の香りは残るのに、A♭メジャーとしての輪郭が少し薄くなる。
残るのは、
Ab - Eb - G
という、開いた響きである。
そこにE♭ベース。
結果として、E♭の上にA♭とGが置かれる。
GとA♭。
半音である。
E♭から見れば、Gは長3度。
A♭は11度。
普通に鳴らすと、3rdと11thのぶつかりでかなり強い。
しかし、ここでは不思議と濁りすぎない。
なぜなら、A♭M7の3rdであるCを抜いているからだ。
Cを抜くことで、A♭側の肉厚なメジャー感が減り、GとA♭の半音が、濁りというより光のにじみになる。
これが怖い。
そして次の5小節目で、
AbM7
として、その影が実体化する。
さらに8小節目では、
Ab/Bb
として、A♭がB♭ベースの上に乗り、E♭へ帰るための装置になる。
つまり、
AbM7(omit3)/Eb → AbM7 → Ab/Bb
というA♭の物語がある。
4小節目をEb11(omit5)と書くと、この物語が消える。
A♭が見えなくなる。
だから、ここはAbM7(omit3)/Ebなのである。
ここまでの4小節をまとめると、こうなる。
Eb Bb/Eb Db/Eb AbM7(omit3)/Eb
ベースはずっとE♭。
しかし上では、
I Vの影 ♭VIIの影 IVM7の影
が順番に現れる。
まだ実体ではない。
影である。
景色である。
車窓である。
2行目:影が実体化し、外宇宙へ触る
2行目。
AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb
ここで、1行目に置かれたものが、少しずつ姿を変える。
1行目では、E♭ペダルの上で影として見せていた。
2行目では、それらが実際に動き始める。
A♭は実体化する。
B♭は形を変えて橋になる。
D♭は自分の足で立つ。
A♭は最後にB♭の上へ乗り、E♭へ帰るための装置になる。
5小節目:AbM7
AbM7
4小節目でE♭の上に影として出ていたA♭M7が、ここで実体化する。
AbM7(omit3)/Eb → AbM7
影から実体へ。
ここはE♭メジャーのIVM7なので、完全な外側ではない。
しかし響きは明らかに大人びている。
子供向けの歌で、IVM7の透明感を普通に置く。
ここで重要なのは、4小節目からの解像度の上がり方である。
4小節目では、A♭M7の3rdであるCが抜かれていた。
つまり、A♭M7の香りはあるが、輪郭は少し曖昧だった。
5小節目では、そのA♭M7がしっかり現れる。
E♭の床に乗っていた影が、A♭自身の地面に立つ。
この瞬間、曲は一度、E♭のペダルから離れる。
つまり、車窓として見えていた景色の中に、少しだけ足を踏み入れる。
ただし、A♭M7はE♭メジャーのIVM7なので、まだ完全な外宇宙ではない。
E♭メジャーの内側にもいる。
しかしM7の響きがあるため、単なる子供向けのIVではない。
この中間感が非常にいい。
6小節目:Bbsus4/G
Bbsus4/G
ここは、2小節目のBb/Ebと対応している。
2小節目では、
Bb/Eb
B♭がE♭ペダル上の色彩として鳴っていた。
6小節目では、それが、
Bbsus4/G
になる。
B♭sus4の構成音は、
Bb - Eb - F
そこにGベース。
G - Bb - Eb - F
これは単純なドミナントではない。
Gm系のようにも見える。
E♭の浮遊和音にも見える。
そして何より、次のDbM7へ行くための柔らかい踏み台になっている。
つまり、
Bb/Eb = E♭上のB♭色彩 Bbsus4/G = 次の異世界へ向かう橋
である。
ここはもう少し丁寧に見たい。
2小節目のBb/Ebには、B♭コードの3rdであるDが入っていた。
そのDは、E♭ベースに対してmaj7のように響いていた。
ところが6小節目のBbsus4/Gでは、そのDが消える。
かわりにE♭が入る。
B♭はsus4になる。
Dを消すことで、B♭のドミナントとしての性格はさらに薄まる。
そしてGベースが置かれる。
このGがまた絶妙である。
GはE♭メジャーでは3度。
つまり、E♭の内側にいる音である。
だが、その上にB♭sus4が乗ることで、Gmのようでもあり、E♭のようでもあり、B♭のようでもある、非常に曖昧な響きになる。
Gを根音に見るなら、
G - Bb - Eb - F
これはGm7に♭13が入ったようにも見える。
あるいは、E♭add9/G的な響きとしても取れる。
ただし、表記としてはBbsus4/G。
なぜか。
ここでも、B♭の物語を残しているからである。
2小節目で出たB♭が、ここでsus化して戻ってくる。
しかも今度は、次のD♭M7へ滑るための橋になっている。
こんなことを、子供番組の歌で、さらっとやる。
7小節目:DbM7
DbM7
3小節目のDb/Ebが、ここで正体を現す。
Db/Eb → DbM7
3小節目では、D♭はE♭ベースに乗っていた。
まだ影だった。
E♭の重力に捕まっていた。
しかし7小節目では、D♭が自分の足で立つ。
しかも、ただのD♭ではない。
D♭M7である。
Db - F - Ab - C
このCが非常に重要である。
Cは、E♭メジャーの中に普通に存在する音である。
しかしD♭M7の中では、D♭に対する長7度になる。
つまり、E♭メジャーの内側にいたCが、D♭という外側の和音の中で、別の意味を持つ。
これである。
ここをもう少し分解する。
3小節目のDb/Ebは、
Db - F - Ab + Eb
であった。
7小節目のDbM7は、
Db - F - Ab - C
である。
つまり、3小節目で出ていたD♭、F、A♭が、7小節目でそのまま自立する。
そして、そこにCが加わる。
このCが、D♭M7の決定打である。
ただのD♭なら、ややロック的、あるいはミクソリディアン的な♭VIIで済む。
もちろんそれでも洒落ている。
しかしD♭M7になると、急に響きが甘くなる。
都会的になる。
少しだけ遠い場所の光になる。
しかも、このCはE♭メジャーの中では全然異物ではない。
E♭メジャーのVI度であり、Cmの根音でもある。
つまり、もともとこの曲の世界にいる音である。
そのCが、D♭という外側の和音の中で、maj7として鳴る。
内側の音が、外側のコードに取り込まれ、別の役割を得る。
そして、ここが歌詞としては非常に素朴な場所なのがまたすごい。
電車の中に、いろんな人がいる。
ただそれだけである。
しかし、その「いろんな人がいる」という視線の裏で、D♭M7が鳴る。
つまり、電車の中の人々を、単なる明るい風景として描いていない。
少し不思議で、少し都会的で、少し夢のような風景として描いている。
子供から見た電車内とは、たしかにそういう場所である。
知らない人がいる。
知らない服がある。
知らない顔がある。
窓の外が流れていく。
自分の生活圏なのに、少しだけ異世界である。
それをD♭M7で描く。
褒めている。
ここで音楽関係者は、たぶん一回止まる。
「え?」となる。
巻き戻す。
もう一回聴く。
ピアノで押さえる。
「いや、DbM7か……?」となる。
もう一回聴く。
そして数時間が溶ける。
8小節目:Ab/Bb
Ab/Bb
響きとしては、これはBb9sus4である。
B♭ベースにA♭トライアド。
Bb - Ab - C - Eb
B♭から見ると、
1 - ♭7 - 9 - 4
なので、機能的にはBb9sus4と見てよい。
では、Bb9sus4と書けばいいのか。
ここはAb/Bbであることに意味がある。
なぜなら、A♭がここまで物語を持ってきているからである。
AbM7(omit3)/Eb AbM7 Ab/Bb
E♭ベースの上に影として現れる。
A♭自身として立つ。
そしてB♭ベースに乗って、E♭へ戻るための装置になる。
ここをBb9sus4と書くと、B♭のドミナント機能だけが前に出る。
もちろん、それも間違いではない。
だが、それではA♭の連続性が見えなくなる。
この曲で大事なのは、
> A♭という上部構造が、ベースを変えながら意味を変えていく
ことなのである。
だからAb/Bb。
さらに言うと、このAb/Bbは、普通のB♭7とはまったく違う帰り方をする。
普通のB♭7なら、
Bb - D - F - Ab
である。
ここにはDがある。
DはE♭へ帰るための導音として働く。
非常に強い。
「さあE♭へ解決しますよ」という顔をする。
しかしAb/BbにはDがない。
Bb - Ab - C - Eb
Dがない。
つまり、強い導音感がない。
かわりにあるのは、sus4であるE♭と、9thであるC。
そして♭7のA♭。
だから、ドミナントではあるが、強く押しつけない。
E♭へ帰る力はある。
しかし、クラシック的に「解決!」とは叫ばない。
ふわっと戻す。
にじませて戻す。
子供の歌の流れを壊さずに戻す。
ここが品である。
しかも、Ab/Bbという表記にしておくことで、4小節目から続くA♭の動きが見える。
AbM7(omit3)/Eb → AbM7 → Ab/Bb
A♭は最初、E♭の上に影として現れる。
次に、自分自身として立つ。
最後に、B♭の上に乗って、E♭へ帰す。
このA♭の働きぶり。
でも美しい。
ここまでで、E♭メジャーの外側を見た
1〜2行目をもう一度見る。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb
ここでは、E♭メジャーの外側に触れている。
D♭が出る。
D♭M7が出る。
A♭が上部構造として動く。
B♭も単純なVではなく、色彩や橋として変形する。
しかし、完全に迷子にはならない。
なぜなら、E♭の床があるから。
歌があるから。
メロディが子供の手を離さないから。
これがすごい。
前半8小節は、E♭メジャーの外側を見ている。
しかし、完全に外へ飛んでいくわけではない。
E♭ペダル。
Ab/Bb。
歌いやすいメロディ。
この3つが、常に手すりになっている。
子供は迷子にならない。
大人だけが、あとで地図を見て震える。
3行目:同じ景色をもう一度見せる
3行目。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb
これは1行目の反復である。
同じE♭ペダル。
同じBb/Eb。
同じDb/Eb。
同じAbM7(omit3)/Eb。
一回目は事件である。
二回目は文法である。
Db/Ebが一回だけなら、「変わったコード」で終わる。
でも二回出てくると、これはもうこの曲の空気になる。
電車の窓から見える、少し不思議な光。
それが、この曲の通常運転になる。
通常とは何か。
しかも、この3行目があることで、聴き手は一度、同じ外側の景色をもう一度見る。
さっき見たD♭の影。
さっき見たA♭M7の影。
それがもう一度流れる。
しかし、次の出口が違う。
1〜2行目では、
AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb
と進み、D♭M7という外側の実体へ触れた。
3〜4行目では、
AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9
と進み、E♭メジャーの内側を通って帰る。
同じ入口。
違う出口。
4行目:今度はE♭メジャーの内側を通って帰る
そして4行目。
AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9 | Ebadd9
ここで、急にE♭メジャーの内側に入る。
E♭メジャーで見ると、
IVM7 | IIIm7 VIm7 | IIm7 V | Iadd9
である。
さっきまでD♭M7という外宇宙を見ていたのに、今度はGm7、Cm7、Fm7、B♭である。
E♭メジャーの家族である。
商店街である。
駅前である。
帰ってきたのである。
13小節目:AbM7
AbM7
ここは5小節目と同じくAbM7。
つまり、4小節目、5小節目で見せていたA♭M7の系譜が、ここでもう一度現れる。
ただし、ここから先の進み方が違う。
前半では、
AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb
と進み、外側へ向かった。
後半では、
AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9
と進み、内側へ帰っていく。
つまり、このAbM7は分岐点である。
前半では外へ。
後半では内へ。
14小節目:Gm7 Cm7
Gm7 Cm7
ここで急に、E♭メジャーの内側に深く入る。
Gm7はIIIm7。
Cm7はVIm7。
どちらもE♭メジャーの中にいる。
完全に身内である。
さっきまでD♭M7という外側の空気を吸っていた耳に対して、このGm7 Cm7は非常に安心感がある。
ただし、退屈ではない。
Gm7からCm7へ行くことで、循環の動きが生まれる。
E♭メジャー内のコードを使っているのに、ちゃんと前に進む。
IVM7 → IIIm7 → VIm7
この流れは、ポップスでも非常に自然で、柔らかい。
外側の色彩から、内側の循環へ戻るための、非常に滑らかな通路である。
だが、この安全運転が気持ちいいのは、前半で危険運転を見せられているからである。
15小節目:Fm7 Bb
Fm7 Bb
IIm7 - Vである。
王道である。
E♭メジャーなら、
Fm7 → Bb → Eb
これはもう、帰るしかない。
ここでようやく、機能和声として非常にわかりやすい終止が出てくる。
それまでの道中が、
Db/Eb AbM7(omit3)/Eb Bbsus4/G DbM7 Ab/Bb
だったことを考えると、このFm7 Bbの安心感はすごい。
しかし、この「普通」が効く。
ずっと普通なら、ただの普通である。
前半で外側を見せたから、最後の普通が帰還になる。
駅に着いた感じがする。
電車がちゃんとホームに入ってくる。
16〜17小節目:Ebadd9
Ebadd9 | Ebadd9
最後はEbadd9。
ただのEbではない。
add9である。
E♭の構成音は、
Eb - G - Bb
ここにFが加わる。
Eb - F - G - Bb
このFが、最後の空気を作る。
完全に閉じすぎない。
帰ってきたけど、まだ少し光が残る。
おもちゃばこの蓋を閉めたけど、隙間からまだ色が漏れている。
前半ではE♭の外側を見た。
後半ではE♭の内側を通った。
そして最後に、ただのE♭ではなくEbadd9で終わる。
つまり、完全な終止でありながら、少しだけ開いている。
子供の歌としてはちゃんと終わる。
でも、耳には余韻が残る。
これがまた、うまい。
前半では、E♭メジャーの外側を見た。
後半では、E♭メジャーの内側を通る。
同じ導入を二回使いながら、出口を変えている。
前半: Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb → AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb 後半: Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb → AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9
これを17小節でやる。
しかも子供が歌える。
メロディラインも、普通に侮れない
ここまでコードの話をした。
だが、この曲はメロディも重要である。
ぱっと聴くと、子供向けの歌である。
音域は無理がない。
言葉も追いやすい。
フレーズも覚えやすい。
しかし譜割りは、意外と四角くない。
全部を拍頭にベタ置きしない。
「でんしゃのー」
「おもちゃばこー」
「ひとがいーるー」
こういうところで、音が少し拍をまたぐ。
伸ばしが次の拍にかかる。
言葉がほんの少し前へ転がる。
これが実にうまい。
子供向けの歌なら、もっと単純にできる。
でん・しゃ・の・な・か・は
と、拍にきっちり置くこともできる。
でもそうしない。
少しだけ浮かせる。
少しだけ前に行く。
少しだけ身体が揺れる。
それが電車の揺れになる。
ガタン、ゴトン。
ただし、機械的なガタンゴトンではない。
人が乗っている電車の揺れである。
子供の視線が、車内をきょろきょろ動く感じである。
そして、これも和声と同じ思想でできている。
本格的なものを入れる。
でも難しさとして押しつけない。
子供は普通に歌える。
でも、譜面を見ると「あれ、けっこうやってるな」となる。
特にすごいのは、メロディのシンコペーションが、コードの複雑さを難しく聞かせるためではなく、むしろ自然に聞かせるために働いていることだ。
コードだけ見れば、かなり凝っている。
しかしメロディが言葉として流れているため、和声の異物感が前に出すぎない。
言葉が少し前に転がる。
音が拍をまたぐ。
その流れの中で、Db/EbやAbM7(omit3)/Ebが通過していく。
つまり、メロディが和声を運んでいる。
電車の歌だけに。
いや、うまいことを言ったつもりはない。
本当にそうなのである。
「おもちゃばこ」の裏で、何が起きているか
この曲の面白いところは、歌詞と和声がちゃんと対応していることである。
「おもちゃばこ」。
かわいい言葉である。
箱の中に、いろんなものが入っている。
何が出てくるかわからない。
楽しい。
色とりどり。
少し不思議。
その裏で鳴っているのが、
Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb
である。
いや、なぜではない。
おもちゃばこだからである。
E♭の床の上に、D♭の影が出る。
A♭M7の影が出る。
上の景色だけがきらきら変わる。
箱を開けるたびに違う色が見える。
これは単なる洒落コードではない。
情景描写である。
おもちゃばこ、という言葉は明るい。
しかし、おもちゃばこは単に明るいだけではない。
何が入っているかわからない。
開ける前の期待がある。
開けた瞬間の驚きがある。
見たことのないものが出てくるかもしれない。
その「何が出るかわからない」感覚に、Db/EbとAbM7(omit3)/Ebは非常によく合っている。
E♭の床はある。
でも上の景色は予想通りではない。
「ひとがいる」の裏でDbM7が鳴る
そして7小節目。
DbM7
歌詞としては、電車の中に人がいるという、非常に素朴な観察である。
電車には人がいる。
それはそう。
しかし、裏で鳴っているのはDbM7である。
ここが非常に美しい。
電車の中の「いろんな人」を、ただ明るいだけで描かない。
少し不思議。
少し都会的。
少し夢っぽい。
子供にとっての電車内は、まさにそういう場所である。
知らない人がいる。
知らない服がある。
知らない顔がある。
窓の外が流れていく。
自分の生活圏なのに、少しだけ異世界である。
それをD♭M7で描く。
褒めている。
そして、なぜこの解析が面白かったのか
筆者がこの曲のコードを解析していて一番面白かったのは、
単に「変なコードが出てきた」からではない。
最初は本当に、個別の響きを追っていた。
ここはEb11か。
ここはBb9sus4か。
ここはEb11(omit5)か。
そうやって縦の響きだけを見ていた。
しかし、聴き返しているうちに、だんだん見えてくる。
2小節目と6小節目。
3小節目と7小節目。
4小節目と8小節目。
それぞれが対応している。
Bb/Eb → Bbsus4/G Db/Eb → DbM7 AbM7(omit3)/Eb → AbM7 → Ab/Bb
つまり、コードが単発で置かれているのではない。
前半で影を見せ、後半で実体を見せる。
前半で伏線を置き、後半で回収する。
外側を見せ、内側へ戻る。
ここで、解析のテンションが一段変わる。
「ああ、洒落てるね」ではない。
「え、これ設計されてるじゃん」になる。
そして、数時間ヘビロテする。
なる。
なった。
ここが、この記事で一番言いたいところでもある。
変なコードがあるからすごいのではない。
変なコードが、ちゃんと配置されているからすごい。
D♭は一度、E♭の上で影として出る。
その後、D♭M7として実体化する。
A♭M7は一度、3rdを抜かれてE♭の上に影として出る。
その後、A♭M7として実体化し、最後はAb/Bbとして帰還装置になる。
B♭は一度、E♭の上で透明な色彩として出る。
その後、sus化してGベースに乗り、次の世界への橋になる。
無駄に凝っているのではない。
必要だから凝っている。
これが怖い。
大人が本気で遊んで、子供に本気で歌わせる
そして、ここで改めて思うのである。
この仕事、たぶん大の大人たちが、くそほどマジになって遊んでいる。
作曲はFrankie T.。
編曲は西脇辰弥。
歌はぶんけかな。
フジテレビの子供番組の楽曲である。
電車の歌である。
子供が歌う歌である。
普通なら、もっと安全に作れる。
もっと簡単にできる。
もっと説明的にできる。
もっと「子供向けです」という顔にできる。
だが、そうしていない。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb
である。
いや、雑に遊んでいるのではない。
本気で遊んでいる。
しかも、120%のパワーで遊んでいる。
子供向けだから手を抜くのではない。
子供向けだからこそ、むしろ全力でやる。
ただし、その全力を「難しいでしょ」と見せびらかさない。
そこにあるのは、職人の遊びである。
そして、その結果を歌っているのが、ぶんけかなである。
ここも大事である。
元祖うたうま少女である。
異論は受け付ける。
だが、私はそう呼びたい。
ぶんけかなは1978年生まれである。
つまり、この曲が1989年のポンキッキ楽曲だとすると、当時はだいたい11歳前後ということになる。
お茶の間から流れてくる声は、まるで幼稚園児が歌っているようにも聞こえる。
これが、私にとってはずっと謎だった。
年齢としては小学校高学年くらいのはずなのに、声の質感はもっと幼い。
幼いのに、音程はしっかりしている。
子供の声なのに、歌として妙に安定している。
あどけないのに、フレーズが崩れない。
この人の周りだけ、歌声の時間が少し別の進み方をしているのではないか。
そう思ってしまうくらい、声がミステリアスなのである。
あとから知ったことだが、ぶんけかなは歌手・槇みちるの娘でもある。
つまり、歌うまサラブレッドである。
それを知った時、妙に納得した。
そりゃ歌える。
そりゃ音程がいい。
そりゃ子供の声なのに、音楽として成立する。
しかし、それでも謎は残る。
なぜあの年齢で、あの声なのか。
そしてこの謎は、後年にも続く。
1999年、千住明が音楽を手がけたNHK『日本 映像の20世紀』のサウンドトラックに、「ふるさと(分家かな)」が収録されている。
この時点で、ぶんけかなはもう20歳を過ぎているはずである。
そこでも、声が妙に若い。
若いというより、時間の刻み方が違う。
大人の歌手の声というより、どこか小学生のような透明感が残っている。
私にとって、ぶんけかなという存在は、そういう意味でもずっとミステリアスだった。
子供の声でありながら、歌える。
幼く聞こえるのに、音楽が崩れない。
いたいけなのに、プロの仕事をしている。
そして「でんしゃのなかはおもちゃばこ」は、その声に、このアレンジを乗せている。
Db/Eb AbM7(omit3)/Eb DbM7 Ab/Bb
いや、偶然ではないと思う。
この曲は、キャスティングの時点でかなり意図的である。
大人が本気で遊んだ曲を、普通の「子供っぽい声」ではなく、子供の声でありながら歌として成立させられる歌い手に渡している。
その結果、どうなるか。
和声はめちゃくちゃ凝っている。
アレンジはかなり攻めている。
でも歌声は、お茶の間にちゃんと届く。
子供番組として成立する。
これは、フジテレビ側のスタッフ選びも含めて、本気の仕事だと思う。
あの頃のフジテレビには、「楽しくなければテレビじゃない」という空気があった。
しかもその「楽しい」は、単に軽いとか、雑に騒ぐとか、そういう意味ではない。
大人が本気でふざける。
大人が本気で遊ぶ。
大人が本気でテレビを作る。
そういう楽しさである。
編成側の偉い人まで、番組の中で水をかぶる。
たらい何杯分だという勢いでぶっかけられる。
しかし、あの時代のフジテレビには、そういう「本気でテレビを面白がる」空気があった。
そしてその空気は、子供番組の音楽にも流れ込んでいたのではないか。
子供向けだから、簡単にするのではない。
子供向けだから、全力で遊ぶ。
子供向けだから、才能ある大人を集める。
子供向けだから、歌える子供に本気で歌わせる。
たぶん、そういうことなのだ。
少なくとも私は、「でんしゃのなかはおもちゃばこ」を聴くと、そう感じてしまう。
大人たちがくそほどマジになって、120%のパワーでフルに遊びまくった。
そのうえで、いたいけな元祖うたうま少女に歌わせた。
結果。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb
である。
もちろん、最高の意味で。
西脇辰弥の変態性、という名の品性
編曲は西脇辰弥である。
このアレンジは、派手な変態ではない。
「難しいコードを入れました」
「ジャズっぽくしました」
「ほら、テンションです」
そういう見せ方ではない。
もっと静かである。
歌を邪魔しない。
子供を置いていかない。
お茶の間の空気を壊さない。
テレビから流れても自然に聞こえる。
しかし、その奥には、
Db/Eb → DbM7 AbM7(omit3)/Eb → AbM7 → Ab/Bb Bb/Eb → Bbsus4/G 外宇宙 → 内宇宙
がある。
いや、狂気というより、愛である。
子供向けだから薄めるのではない。
子供向けだからこそ、本物を入れる。
ただし、本物を「勉強」として押しつけない。
子供は普通に楽しい。
親は普通に聴ける。
音楽関係者だけが、あとから気づいて震える。
そのためのアレンジである。
しかも、このアレンジは「気づかれなくてもいい」タイプの仕事である。
子供は気づかない。
親もたぶん気づかない。
テレビから流れてきても、誰も「今のDbM7が」などと言わない。
しかし、音は残る。
豊かな響きとして。
少し不思議な色として。
子供の耳の奥に、何かよくわからない良いものとして残る。
これは、私にとって宿題だった
少し大げさに聞こえるかもしれない。
しかし私にとって、「でんしゃのなかはおもちゃばこ」のAメロは、人生の中でずっと残っていた宿題の一つだった。
子供の頃に聴いた。
耳に残った。
何かが引っかかった。
でも、その正体はわからなかった。
しかも、それは一度忘れれば終わるものではなかった。
普段は忘れている。
普通に生活している。
プログラムを書いたり、仕事をしたり、別の音楽を聴いたりしている。
しかし、何かの拍子にふっと思い出す。
「あの曲、なんだったんだろう」
そうなると、また頭の中で鳴り始める。
Aメロのあの変な光が戻ってくる。
Db/Ebの影が戻ってくる。
DbM7の気配が戻ってくる。
忘れたころに爆発する。
しかも一回ではない。
人生の中で、何度も爆発する。
そのたびに、「いや、あれは何だったんだ」と思う。
でも、公式コードはない。
誰かが解説しているわけでもない。
だからまた、自分の中でくすぶる。
「でんしゃのなかはおもちゃばこ」は、私にとってそういう曲だった。
かわいい子供向けの歌の顔をして、耳の奥に仕掛けられた時限爆弾だったのである。
この感じを、何にたとえればいいのか。
滝廉太郎の「花」におけるヨナ抜き解除事案、みたいな話も少し頭をよぎる。
よぎるのだが。
それはそれで、別途ちゃんと書きたい。
たぶん一記事になる。
いや、なる。
なので、ここではもう少し軽快に言いたい。
この感じを、何にたとえればいいのか。
滝廉太郎の「花」におけるヨナ抜き解除事案、みたいな話も少し頭をよぎる。
よぎるのだが。
それはそれで、別途ちゃんと書きたい。
たぶん一記事になる。
いや、なる。
なので、ここではもう少し軽快に言いたい。
アーメンブレイクである。
あれも、もともとは数秒のドラムブレイクである。
曲の中の一瞬である。
しかし、その一瞬が切り出され、刻まれ、組み替えられ、世界中で使われ続けた。
短い。
軽い。
でも、耳に残る。
そして後から何度も爆発する。
「でんしゃのなかはおもちゃばこ」で言えば、その爆弾はこの1行目である。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb
この4小節。
これがもう、異様に強い。
しかもこの曲、この4小節をかなり気に入っている。
前奏でまず、この進行が出る。
しかも1回ではない。
2セット出る。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb
そしてAメロに入る。
すると、またこれである。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb
いや、わかる。
気に入る。
これは気に入る。
E♭の床を固定したまま、
B♭の透明感を乗せ、
D♭の影を差し込み、
最後にA♭M7の影を落とす。
この4小節だけで、もうこの曲の世界が立ち上がっている。
前奏で2回。
Aメロでさらにもう一回。
つまり聴き手は、歌が始まる前からすでに、この進行を耳に刷り込まれている。
子供は普通に「きれいな前奏」として聴く。
大人も普通に「かわいい曲だな」と思う。
しかし耳の奥では、
Db/Eb AbM7(omit3)/Eb
が、じわじわと仕込まれている。
もちろん褒めている。
この4小節は、曲の中で何度も顔を出す。
だから、単なるコード進行ではなく、ほとんどリフである。
和声のリフである。
アーメンブレイクがドラムの数秒で世界を作るなら、
この曲は、
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb
という4小節で、自分の世界を作っている。
いや、何を言っているのか。
でも、そうなのだ。
誰かにとっては、ただのかわいいポンキッキ曲かもしれない。
しかし私にとっては、この4小節が何度も耳の中で再生される。
忘れた頃に戻ってくる。
「あれ、今の何だったんだ」と思わせ続ける。
大人になっても、まだ効いている。
しかも前奏から叩き込まれているので、逃げ場がない。
いや、何を言っているのか。
でも、そうなのだ。
誰かにとっては、ただのかわいいポンキッキ曲かもしれない。
しかし私にとっては、耳の中で何度も再生され、何度も解析欲を呼び起こす、妙に強い数小節だった。
だから、いつか誰かが言うと思っていた。
「この曲、実はものすごいことをしている」と。
誰か音楽に詳しい人が。
誰かポンキッキ楽曲を掘っている人が。
誰かあのAメロのDbM7に気づいた人が。
いつか言うと思っていた。
しかし、誰も言わない。
少なくとも、私の見える範囲では、誰も言っていなかった。
ならば、書くしかない。
「でんしゃのなかはおもちゃばこ」は、ただのかわいい子供番組の曲ではない。
子供が歌える形で、E♭メジャーの外側と内側を17小節で往復する、異常に上品な和声の小宇宙である。
そのことを、どこかに書き残しておきたかった。
最後に
「でんしゃのなかはおもちゃばこ」は、かわいい子供向けの歌である。
これは間違いない。
だが、ただの子供向けの歌ではない。
公式コードが未公開であるがゆえに、耳で追い、何度も聴き、コードを書き換え、構造を探っていくと、そこにはとんでもない設計が見えてくる。
Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb AbM7 | Bbsus4/G | DbM7 | Ab/Bb Eb | Bb/Eb | Db/Eb | AbM7(omit3)/Eb AbM7 | Gm7 Cm7 | Fm7 Bb | Ebadd9 | Ebadd9
1〜2行目で、E♭メジャーの外側を見る。
3〜4行目で、E♭メジャーの内側を通る。
D♭は影から実体へ。
A♭は影から実体へ、そして帰還装置へ。
B♭は色彩から橋へ。
メロディは子供が歌える。
でも譜割りはさりげなくシンコペートする。
和声は複雑だが、聴感は自然。
テレビから流れても、何も邪魔しない。
それでいて、気づく人には気づかせる。
マである。
おもちゃばこの中には、ぬいぐるみもミニカーも入っている。
しかし、その底には、きれいに畳まれたE♭メジャー宇宙が入っている。
ただし、最高級品である。
ただの子供番組の曲と侮るなかれ。
これは、子供にも届く本物である。
